#25 夢の使い方
こんにちは。毎日がチートデイのYUKIです。
その昔、「市議会議員、興味あるかい?」とある方にお声掛け頂き、政治家さんのパーティーに参加させて頂いた事があります。民間企業で納税して地域に貢献するのが自分には合っているなと決意した瞬間でした。僕が目指す最終形態は「前澤さん」です(特に憧れとかはない笑)。頑張ろうとする人や困っている人にあれだけの事ができるってすごい。今は年一でアスリートに極小のスポンサードや仕事の斡旋しか出来ていませんが、いつか前澤さんくらいの破壊力で地域やスポーツ界に貢献するつもりです。
さて、コロナ禍でご依頼がありませんが、僕は日本サッカー協会主催の「夢先生」の講師をさせて頂いております。小・中学生に対して、様々な挫折がありながらも夢を叶えた経験をお伝えしていく授業内容です。夢先生を軸に考えた時、日本サッカー協会さんの思想の代弁と受け取られ兼ねませんので、あくまでも僕個人の私見を述べます。僕は子供達に大成してほしいという願いはまったくありません。心身共に健康で友達がいるのならばそれ以上はなんでもいいと考えています。そうなる為に必要な要素のひとつに「友達」と「夢」があると考えています。
夢と比較は同種
成熟していない大人や子供の悩みにおいて、その悩みの要因が「比較」であるケースがあります。「あいつはレギュラーなのにオレは違う」、「オレだけ選抜に選ばれなかった」などが例です。そんな時、次のように指導する大人はいるでしょう。
比較は良くない。比較をする必要はない。自分をみなさい。
僕自身も幼少の頃、比較により多くの劣等感を感じていたことがあります。劣等感を原動力にできるタイプとそうでないタイプと人それぞれかと思いますが、後者の場合は比較を悪と感じる事があるのかもしれません。
現実をみましょう。
社会に出たら何事も比較です。過去と現在、同僚、他社、日々様々な比較により我々の成長は成り立っています。そもそも我が国は資本主義ですから競争の中に生きています。何事も使い方次第で善にも悪にもなりますから、一部の悪という側面だけで全体像を決めつけるのはよくありません。
僕は幼少のころから劣等感の塊でした。走力が長けていたのですが、学年で1番早い生徒が同クラスにいた為、クラスで2番の走力でした。彼と自分の比較により劣等感を感じた事になるわけです。他人からすれば「そんなに足が早いなんてすごい!」と評価頂けるのかもしれませんが、他人と比較する事により劣等感に苛まれた事実があります。
同じようなシーンを大人の僕が目撃した時、子供にうっかり「比較するものじゃない」と無難な指導をしてしまうかもしれません。ですが、その比較や劣等感を原動力にして僕は2つの夢を達成してきたわけです。社会に出てからも比較を教わり、比較に浸され、比較に生き成長を遂げてきた歴史があり、これは紛れもない事実なのです。
綺麗事ではなく、こういった比較現実を受け入れたうえで、子供たちに伝えるべきことがあるのではないかと思うのです。未熟な子供がプライドに囚われ自身の成長を妨げてしまう原因を「比較」としてしまうのはあまりにも短絡的に思えてなりません。「包丁は凶器になりますから調理に使用するのはやめましょう」ではなく、使い方を教えるのが指導者や大人ではないでしょうか。
本題に
夢を持った方がいいのか?そう問われれば、持った方が良いと思っています。僕が考える「夢」とは単なる「道」です。子供が考える夢は、道路でいえば片側3車線くらいのざっくり大きな道です。夢や目標がない場合、未来という点においてはコンパスを持たずに荒野に立たされた状態といえるでしょう。一生その荒野で楽しむというのもひとつの才能になりますが、それはあくまでも結果論になる為、未熟な子供の場合はざっくりでも道があった方が良いかもしれません。
道(夢)があるメリットは沢山あります。努力を覚える可能性、正しい努力の仕方、道を逸れそうな際の理性の育成、隣に同じ道を歩く友達いる、このように様々な恩恵を得ることが出来ます。夢の素晴らしさを頭で理解できたとしても、夢を持てるかどうかはまた別の問題。そんな時、「比較」が役に立つこともあるのです。あの選手には負けない、誰よりも早くレギュラーになる、この練習だけはアイツよりも動く、これらは皆比較です。
夢と言えば素晴らしく聞こえるかもしれませんが、その夢は比較の上に成り立っています。人と自分を比べてしまう自然な成り行きを受け入れ、道を決めていく事が夢を持つ手掛かりになりそうです。令和の子供達には夢を大袈裟に捉えず、単なる標識のひとつだと考え、彷徨うことなく未来に突き進んでもらいたいです。